食べて、読んで、息をして。

24歳会社員が読んだ本とか日常のあれこれを綴るブログ。

青春ってどんな味?◾︎『The Body』スティーブン・キング

近頃○○原作の○○というのをよく聞く。

漫画が原作のドラマとか、アニメ原作の実写映画とか…完全オリジナルの作品なんて珍しいんじゃないかと思うくらいだ。そして、大抵の場合それらは原作ファンに物凄く不評だったりする。

今回読んだのはスティーブン・キングの『The Body』。ご存知の方もいるかと思うが、映画『STAND BY ME』の原作となった小説だ。そう、少年4人が死体を探しに行くあれである。私が先に出会ったのは映画の方で、父がしきりに「なんか上手くいえないんだけど、すごく良いんだよ」と意味の分からない言葉で絶賛するので、某レンタルショップで借りてきたのだ。

実際にみてみると、なるほど確かに、言葉ではうまく説明できないがすごく良い。特別に盛り上がるシーンとか感動する場面がある訳ではないのだが、精一杯背伸びをして大人に対抗しようとする少年たちの姿が、どこか懐かしく、妙に切ないのだ。そんな訳で、この名作の原作は一体どんな小説なのだろうと手に取ってみたのだ。が、なんていうか、別モノだった。

私は知らなかったのだが、『キャリー』とか『ミスト』もスティーブン・キングが原作だったのね。どうりで…。まえがきでモダンホラー作家として著名な作者がそのレッテルを離れて書いた作品とあったけれど、やっぱりその色は完全には抜けないもの。映画の方はそんな雰囲気が一切なかったものだから驚いた。

小説と映画。処々変わっているところはあるけれど、私は『何を通して成長していくか』という部分が最も異なっており、それでいて最も物語の核になる部分だと感じた。

『STAND BY ME』では複雑な家庭環境を抱えた少年たちが、友人にその痛みを打ち明け、共有することで自己と向き合う姿が描かれている。死体を見つけるという一つの共通目的を持ち、一本の線路の上を歩いていく。歩くという行為は頭を使わない。よって、使わない頭の中は空っぽになっていき、普段考えないようなことが突然浮かんできたりする。そして、実はそれが心の奥底に眠っていた自分自身の本当の芯の部分だったりするのだ。

斯くいう私も、飲み会帰りに最寄まで行く終電を逃し、仕方なく歩いた深夜の道中でふと自分の本心を悟ったことがあるのだが、それはまあ置いといて。

映画の最後は

『I never had any friends later on like the ones I had when I was twelve.Jesus,does anyone?(あの12歳の時のような友達はもうできない。もう二度と…)』

という有名な一文で締めくくられ、ベン・E・キングの名曲が「ウェンザナイッッ」とまぁ、良い感じに流れ始める。非常に良い。4人はそれぞれの道を歩み、別々の運命を辿っていくけれど、線路の上を歩いたあの暑い夏の日のことは決して忘れない、そんなカルピスソーダのような爽やかな後味を残してくれる。

しかし、だ。

小説はそうはいかない。カルピスソーダかと思いきや、ドクターペッパーのような不思議な鼻につく風味が残るのである。私がこの小説の中で一番衝撃を受けたのは、カレッジ・コースに進学することに落胆しているゴードンにクリスが言った言葉だ。

 

 おまえの友達はおまえの足を引っぱってる。溺れかけた者が、おまえの足にしがみつくみたいに。おまえは彼らを救えない。いっしょに溺れるだけだ。

 

大人が子供に言うのなら分かる。しかし、今この瞬間に仲良くしている同じ年の友人に、同じく仲良くしている別の友人のことをこんな風に言われるのって恐ろしくないだろうか。別に悪口を言っている風ではなく、ただ真実を、ありのままに言っているだけなのが余計に怖い。 そして、この死体探しの旅のあと、テディとバーンはクリスの言った通り“溺れていって”しまう。

この小説は、爽やかで甘酸っぱい少年たちの友情を描いた青春物語ではなく、少年が「人生の岐路で“何を捨てるか”という選択をすることで成長する」物語なのだ。カレッジ・コースに進むか職業訓練コースに進むか。少年たちにとって生まれて初めての人生の分岐点だ。今が楽しいからとか、真面目にやるのが格好悪いからとか、そういう一時の感情ではなく、もっと先の自分の姿を考えたときに何をすべきなのか、何を捨て、何を選択すべきなのかということを想像することが、少年から大人へ成長するために本当に必要なことなのだと思う。

青春は爽やかなだけではない。甘酸っぱいだけではない。

ときに理不尽にも思えるような選択をし、その痛みに耐えることもある。結末がハッピーエンドだけではないことを知り、無力感に苛まれることもある。しかし、自分で道を選択し、時には失敗をして後悔して、それでも前を向くことが大人になるということなのだと思う。

読後にはなんだか遣る瀬無いような、切ないような気持ちになったが、映画とはまた違った理由からなのだろう。

映画は映画、小説は小説。どちらも良い。

 

そして、どうでもいいけど『The body』(死体)を『STAND BY ME』に変更した人に天晴れをあげたい。

豊かさについて考える。◼︎『モモ』ミヒャエル・エンデ

私の高校からの友人に猛烈な遅刻魔がいる。

あるとき、約束の時間に待ち合わせ場所についたが5分待っても、10分待っても現れないことがあった。さすがに心配になって連絡すると、彼女は悪びれもせず「今?最寄」と言うのだ。いやいやいや、アンタね。さらに加えて彼女は眠たげな声で「電車が間の全駅吹っ飛ばしてくれたら間に合うかも」などとのたまうのである。すでに10分遅れているというのにえらい強気である。

そんな高校時代を経て社会人となった現在、彼女との待ち合わせの際は私も大いに学習してあえて15分程遅れていくようにしているが、彼女が先にいたことはほとんどない。そして、彼女の遅刻の言い訳も相変わらずである。社会人としてどうなのかと心配になるが、私との待ち合わせ以外はほとんど遅刻はないらしい。なんでやねん。無性に腹が立つが、もう慣れっこになってしまった。

こうして私は「待ち合わせに来ない友人をひたすら待つ時間」というものを経験してきた。なんでも時間短縮が良いとされる今のご時世ではこれ以上に生産性のない時間もないだろう。しかし、私は案外こういう時間が好きだったりする。

近くのカフェに入って読みかけの本を開く。

ブラブラと気になるお店をのぞいてまわる。

ぼーっと道行く人を眺める。

 思いがけずポカンと空いてしまった時間を好きなように過ごす。そんな些細なことにちょっとした贅沢を感じるのだ。これで注文したミルクティーが美味しかったり、たまたま入ったお店でドストライクの雑貨に出会ったりするともう最高で、遅れてきた友人を満面の笑みで迎えることが出来たりする。

 

『モモ』はドイツ人の児童文学作家ミヒャエル・エンデによって書かれた。

あるとき突然現れた灰色ずくめの男たちによって人々の時間が盗まれてしまい、主人公の少女モモが奪われた時間を取り戻すために戦うというのがざっくりとしたあらすじで、児童文学らしくメルヘンで幻想的なお話だ。

しかし、それだけではない。

物語に出てくる時間の番人マイスター・ホラは言う。

 

光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、その心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。ちょうど虹の七色が目の見えない人にはないもおなじで、鳥の声が耳の聞こえない人にはないもおなじなようにね。(P.236)

 

 

毎日あくせくと決められた仕事をこなし、せかせかと早足で歩いている私たちの時間ははたして生きているのか、死んでいるのか。いつもよりせかせか歩いたことで生まれるはずの時間は一体どこに消えるのか。「心」が豊かであるためには何が必要なのか。

この物語を読むと、そんなことを問いかけられている気がするのだ。

月曜日に重い身体を起こして出勤し、土曜日になって「休みだー!!!」とサンバを踊りかねないくらいはしゃいでいる私の平日5日間は、もしかしたら灰色の男たちに盗まれてしまったのかもしれない。

朝の電車も、仕事中も、休日も、遅刻魔の友人を待っているときも、同じように時間を感じることのできる心でいたい。それが本当の意味での「豊かさ」だと思うのだ。

 

 

御挨拶

新年あけましておめでとうございます。

2017年という新しい年の始まりを機に、ブログを始めてみました。

読んだ本の感想を綴ったり、日常のあれこれを本に絡めて書いたりしていく...予定です。

手探り状態ですが、とりあえず一年、何とか続けていければと思います。

2018年の幕開けにもここで御挨拶ができますように。

 

何卒よろしくお願い致します。