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24歳会社員が読んだ本とか日常のあれこれを綴るブログ。

天才でも奇才でもなく■『堕落論・日本文化私観 他二十二篇』坂口安吾

私はあまり本を読み返さない。いやむしろ、一度きりのことがほとんどだ。

しかし、坂口安吾は何故かふとした時に読み返したくなる。全部、という訳ではないが本棚から手に取ってパラパラとページを捲り、適当なところでとめる。読む。満足したら、戻す。そんなことを定期的にやっているのだ。

特に『日本文化私観』『堕落論・続堕落論』『青春論』が好きだ、と言いたいところだが正直に言おう。この3作品が好きというか、この3作品以外よく分かんないのである。私にとって安吾の作品は『少なくとも3回は読まないと理解できない』モノだ。悲しいことに、知識や理解力や想像力が乏し過ぎて1回読んだだけでは何が言いたいのかがぼんやりとしか分からない。そして、2回3回と読んでみる。理解できることもあるし、できないこともある。しかし、絶対に理解できないものではない。

私は所謂 "奇才" に触れたときに『天才の頭の中を見た…!』と思うことがある。ティム・バートンサルバドール・ダリの美術展に行ったときも、この感覚を覚えた。それは「よく分からないけど、なんかすごい」という自分の理解の範疇をいい具合の方向性で突き破ったものに対する、率直な『感覚』である。頭では理解できないものを肌で感じるという、半ば無理矢理な荒業。しかし、安吾の作品は違う。

よく分からないなりに、妙に納得する部分がある。

わー、この考え方私と一緒だ…!と思う部分がある。

安吾は決して天才や奇才ではなく、誰よりも人間臭い人間なのだ。

小気味よく自虐を挟んできたり、そうと見せかけて痛烈な皮肉を言っていたり、自分を下げて他人を上げているようでむしろ他人を思いっきり下げていたり。とにかく気難しくてひねくれ者。友達になれる気がしない。しかし、どこまでも人間臭くて、誰よりも人間を愛している人。私にとって安吾はそんな人だ。

 

めいめいが各自の独自なそして誠実な生活をもとめることが人生の目的ではなくて、他の何物が人生の目的だろうか。私はただ、私自身として、生きたいだけだ。

私は風景の中で安息したいとは思わない。又、安息し得ない人間である。私はただ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。そして、私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、私は堕ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。神よ。わが青春を愛する心の死に至るまで衰えざらんことを。(『デカダン文学論』) 

 

自分が生きやすい環境を求めること。自分のために生きること。それは、誰もが願っていて当たり前のことなのに、堂々と口に出すのが憚られることだ。まるで自分勝手な考えのように聞こえてしまう。

生きている以上、自分にとってより良く、豊かな人生をおくりたいと思うのは当然のこと。私だって、なんだかんだ言って自分のことが一番可愛いし、私はいつだって自分が生きやすい環境を求めている。私と私が愛している人々が幸せなら、とりあえずそれでいい。そのために敢えて自分を殺して演技をすることもある。ふとした時に、それが正しいのか分からなくなる。

 

 

年をとると物分りが良くなるというので急に他人のことを考え、慾がなくなるなぞという納まり方は信用できぬ、人間生きるから死ぬまで持って生れた身体が一つである以上は、せいぜい自分一人のためにのみ、慾ばった生き方をすべきである。毒々しいまでの徹底したエゴイズムからでなかったら、立派な何物が生れよう。(『枯淡の風格を排す』) 

 

 

安吾はそんな私の気持ちを、ぶっきらぼうに、それでも力強く肯定してくれる。

安吾は思うまま欲張って自分のために生きろと言うけれど、このご時世にそんな生き方をする強さを、残念ながら私は持っていない。だから、私は私のやり方で愛するものを愛し、私自身を愛していこうと思う。

 

誰よりも人間臭く、誰よりも人間を愛している人。

だからこそ私は3回でも4回でも10回でも読み返して安吾の作品を理解したいと思う。

そんな訳で私また定期的にこの本を開くことになるだろう。いつか理解できますように。